2021.3.1
FIRE REPORT #157 THINK 10 YEARS 〜東日本大震災から10年〜
2020年11月某日、仙台空港からレンタカーに乗り、常磐自動車道で一路南下する。未曾有の複合災害、東日本大震災からもうすぐ10年を迎えるのを機に、我々は被災地の今を直に見聞するべく福島の地を訪れた。浪江ICに近づくにつれ、路肩にたたずむ線量計の数値が否が応でも現実を突きつけてくる。そしてICを降りた瞬間、世界は変わった。最初の交差点で左に折れれば、もう帰還困難区域である。その方面から走ってくる車両はフロントにゼッケンを掲げたダンプカーばかりで、運転席のドライバーは防護服を着ている。そこは紛れもない、現在進行形の被災地だった。
我々が最初に向かったのは原発20キロ圏内に位置する双葉地方広域市町村圏組合浪江消防署。そこで原子力災害という未曾有の事態に直面した職員が我々のインタビューに応じてくれた。
消防職員としての存在意義を考え続けた10年間
浪江消防署作山 真哉消防司令補
震災発生時も浪江消防署勤務。原発災害発生後は情報も応援もないなか、避難指示区域内で救助活動に孤軍奮闘した。
実際、放射線というのは目に見えるものではないので怖さは感じません。しかし想定をはるかに超え、なおかつ測定するたびにさらに高い数値を示す線量計、ほとんど入ってこない情報、という状況下での不安というのは当然ありました。そうした経験を経ると、双葉消防本部の職員はどこのどんな災害にも立ち向かえるという心構えができます。原発災害発生後、誰も住んでいない街を守るという警備的要素の強い活動を続けていました。その間、消防の存在意義についてずっと考えていましたが、避難指示が少しずつ解除され、ようやく人の姿が戻ってきたことで、その答えが見え始めた気がします。小学生が消防署の見学に来る、あるいは地域住民に防火指導を行う、そうした地域に根ざし、地域に住む人と関わり合いながらの活動が消防の本来の姿なのだとあらためて感じています。装備資器材は徐々に新しくなり、充実してきています。しかしそれを使う職員の心が地域とともにあることの方が、さらに重要なのだと思います。そのことがこの10年間で得た消防職員としての大きな学びです。
浪江消防署松林 俊樹消防司令補
震災発生時は救急隊に所属。原発災害発生後、避難指示区域に取り残された住民の救急搬送に奔走した。
避難指示が出たあともその地域には取り残された住民が大勢いて、その方々の救助、救急搬送は待ったなしです。あとで知ったことですが応援の隊は区域内に入ることができず、活動していたのは我々だけでした。混乱のなかで交通状況も悪く、6時間をかけて病院まで救急搬送をし、また次の救急搬送という状態で「自分たちは忘れられているのではないか?」と感じながらの活動でした。
私自身が浪江町の住民で、原発災害によって避難を余儀なくされ、戻って来たのは3年前。そもそも地方の消防職員というのは、そこに住んでいる人が「自分たちの街を守りたい」という強い思いを抱いてめざす職業だと思っています。その意味では10年経つ前に住民として戻ることができたのは嬉しいことです。しかも避難指示が出て立ち入りが制限されたなかでも自分の街を見続けることができたのは、消防職員ならではの経験だと思います。正直、いろいろなことがあり過ぎて、あっという間に過ぎてしまった10年間でしたが、いつか振り返ってみたときに「あの10年間、自分の街を守ったんだ」と実感できるようになるのかもしれません。
震災発生直後の双葉地方消防本部の大まかな動き
2011年(平成23年)
3月11日
14:46 | 地震発生。マグニチュード9.0、浪江町の震度は6強。 消防本部、浪江消防署、富岡消防署の庁舎も大きな被害を受ける。 |
14:47 | 浪江消防署通信室に消防指揮本部を設置し、全職員に第2次非常招集を発令。同時に多数の通報による救助活動を開始。 |
14:49 | 大津波警報発令。避難誘導のために各部隊が緊急出動。 浪江消防署前には応急救護所を開設する。 |
15:27 | 津波第一波が襲来し、負傷者の救助・救急搬送が始まる。 福島第一原発の電源喪失。 |
3月12日
15:36 | 福島第一原発1号機が水素爆発。 |
18:25 | 福島第一原発半径20km圏内避難指示により、消防指揮本部、浪江消防署、富岡消防署、楢葉分署の機能・人員・車両を移転。 20km圏内の避難困難者に対しては、放射線量測定、防護措置を講じながら探索・救助活動を継続する。 |
3月13日
12:54 | 福島第一原発で自衛隊に対する淡水搬送及び給水を実施。 |
3月14日
11:01 | 福島第一原発3号機が水素爆発。 これによる負傷者の救急搬送を実施。 |
4月1日
消防本部を川内村コミュニティセンターに移転。 |
4月9日
福島県警と管内沿岸地域の行方不明者の捜索活動を開始。 |
2012年(平成24年)
4月1日
消防本部を広野町サッカー支援センター「柊」に移転。 |
10月1日
仮設庁舎を建設し、消防本部事務機能と災害対策消防指揮本部を移設。 |
双葉地方広域市町村圏組合 浪江消防署
地震による損害とその後の避難指示により人員と車両を移転。放射線や災害対応など状況の変化にあわせて移転を繰り返し、2020年8月25日、新庁舎を建設しあらたなスタートを切った。
浪江消防署で震災を契機に拡充された装備資器材
翌日、我々は南相馬市沿岸部にまだ残る津波の爪痕を見て回り、さらにその足で相馬地方広域消防本部南相馬消防署へと向かった。地理的にはほんの少しの高低差で施設自体は津波被害を受けることはなかったが、南相馬の職員らもまた過酷極まりない現場を経験し、さまざまな思いを胸にこの10年間を過ごしてきたであろうことが、短い取材時間でも痛切に感じられた。
経験・技術・知識の継承を今後の課題として
南相馬消防署小林 友樹消防司令
地震発生直後に署へ駆けつけ、以後、1週間帰宅することなく活動を継続。想定を大きく超える規模の災害に立ち向かうなかで、日ごろの訓練と互いを信じ合う絆こそが消防職員の力の源であると確信した。
余震に津波警報、ガレキに埋もれた気の遠くなるほど広大な捜索範囲、帰る方向もわからない真っ暗闇、など活動を阻むものがあまりにも多く、「72時間」は本当につらいものでした。人員も装備も足らず、要救助者にただ声をかけて励ますことしかできずに前進し、のちにご遺体として対面したときの感情は、言葉ではとても言い表すことはできません。30数名のうち1名だけしか救命できなかった現場もあります。震災を経験して実感したことは「人間はもろい」ということです。だからこそ常に備える必要があるのだと思います。
南相馬消防署梅田 真史消防司令
救急救命士として病院実習中に震災に遭遇。病院内の避難誘導後、夜を徹して署に戻り、休む間もなく現場へ。当時の自宅は原発20キロ圏内にあり、家族への心配を感じつつも消防職員としての責務を全うした。
病院実習中、手術室から出た途端に地震が発生し、混乱する病院内の様子に後ろ髪を引かれる思いで配属先の署へと車で戻りました。その車内のラジオで聴いたのが大津波襲来のニュースです。そして原発事故が発生。私の家は原発20キロ圏内にあり、家族への心配と放射線への不安、そして消防職員としての使命感が心のなかでせめぎ合いながら活動していました。これはほかの多くの職員も同様です。家族は今も離れた場所で生活していますが、私が消防職員としてここにとどまっている意味を常に考えるようにしています。
当時の活動を振り返る小林(右)・梅田(左)両消防司令。
相馬地方広域消防本部はこの10年間で職員の定年退職が進み、震災時の活動を経験していない職員が全体の30%まで増えた。したがって若手職員への知識、技術の継承は大きな課題であり、震災の教訓を風化させないための創意工夫を凝らした訓練を実施している。震災をきっかけに消防をめざした職員が多く、モチベーションは旺盛。同様に地域住民の防災意識も非常に高く、そこを生かした自主防災組織充実のための施策も進められている。
相馬地方広域消防本部 南相馬消防署
職員自身が被災するなど過酷な環境下で活動を続けた最前線。「安全・安心をその先の未来へ 一意奮闘」をスローガンに掲げる。
当時、最前線で活動した4人の消防職員への直接取材は我々にとっても葛藤の連続であった。当時も今も、ほぼ傍観者に過ぎない我々がどこまで彼らの個々の記憶に踏み込んで良いのか?「共感」というあまりにも軽薄な心情のみで、情景さえ思い描けないほど残酷な現場での経験をただ聴いていて良いのか?しかし努めて冷静に淡々と語りながらも、時折感情をちらりとのぞかせる消防職員たちのその表情に、我々は真の強さと覚悟をまざまざと感じ取った。
原発事故後、住民のいなくなった地域で生まれた防災上の課題の一つが消防団の不在だったという。火災発生時の対応力だけでなく、水利の維持管理、住民情報の把握といった平時からの草の根の活動が機能しなくなったことの影響は大きい。
我々は取材の最後に福島市消防本部を訪れた。現在、ここで消防団業務に携わる佐久間消防司令もまた沿岸部の現場活動に出動し、涙を飲む思いを幾度も重ねたが、今回の一連の取材をコーディネートし、我々に震災後10年について考える機会を与えてくれたキーパーソンである。震災前から今日まで、変わらず多くの人々に「はしご」を架け続け、福島の街を守っている一人だ。
地域防災の要、「消防団」の新しい形
福島市消防本部佐久間 真消防司令
全国的に消防団員のなり手は減少する傾向にあり、福島市でも充足率は定員の90%となっています。そのような状況下、福島市消防団では2019年に外部委員と共同で「福島市新時代消防団計画」を策定し、本格的にその対策に乗り出しました。その計画を受け、福島市消防本部で2020年10月にあらたに始まったのが、機能別団員制度と女性消防隊の導入です。この取り組みは単なるマンパワー増強のためだけではなく、女性や学生の新鮮な視点を消防団活動に生かしていくことも目的としています。従来の火災以外に、地震や水害など災害の多様化が進むなかで、消防団活動もそれに対応して多様化していく必要があり、そこに新しいアイデアや力が加わることに期待しています。彼ら彼女らの今後の活躍には心からエールを送りたいと思います。
機能別団員制度
能力等に応じて特定の活動のみ参加し、基本団員の活動を補完する団員を設ける制度で、以下の3つに区分される。
1
支援団員
消防団、消防職員OBが対象で、その経験を生かした技術の伝承や現場での安全確認等で基本団員を支援する。
2
学生団員
福島市内の大学や専門学校に通学している学生が対象で、火災予防運動や広報活動、大規模災害時の後方支援活動を行う。
3
事業所団員
福島市内に勤務する人が対象。勤務地周辺で発生した火災の初期消火にあたる。
女性消防隊
火災予防活動や入団促進などの広報活動や防火防災指導、応急手当ての普及啓発活動、大規模災害時の後方支援活動等を行う。2020年12月現在、8名が所属し、活動を開始している。
住民が支える防災力、福島の未来への思い
福島市消防団
斎藤 長三郎団長
学生団員は研修を行い、すでにPR活動を始めています。より多くの方々に消防団の魅力を伝えていただき、災害時に多くの団員が活躍できる消防団にしていきたいと願っています。
福島市消防団 女性消防隊
宮村 たま江隊長
発足したばかりですが、今後は訓練にも参加してスキルアップを図っていきます。そして「花も実もあるはなもも隊」の愛称どおり、外見も中身も充実した地域に親しまれる隊をめざします。
学生団員1
震災時、一杯の水だけで家族4人が歯磨きをしたことは一生忘れません。その経験から、被災した方々を支援することができるようになりたいと思うようになりました。食べものが美味しく、人も温かい福島が大好きですので、これからもこの地で暮らしていくつもりです。
学生団員2
多くの人が一瞬で亡くなってしまうという恐ろしい現実を体験し、一日一日を大事に生きることがいかに重要かを学びました。同時に日ごろからの備えの必要性も痛感しました。消防団活動ではできるだけたくさんの人と関わりたいと思っています。そして、将来の目標である看護師としての仕事に生かしていきたいです。
学生団員3
被災時は3日間電気が使えず、テレビからの情報も得られず、ラジオで凄いことになってるんだということしか分からない状況で携帯も繋がらず不安でした。それでもリビングに家族8人で布団を敷き、ランタンだけで夜を過ごしたり、初めてドラム缶風呂に入ったりと、不安ななかでも家族がいることの安心感をあらためて実感することができました。計画的避難区域の指定に対し、「なぜ帰れないんだろう」「なぜちゃんと地震に備えてなかったんだろう」と憤りを感じたこともありました。実は今でも自分の出身地を言うことができません。「原子力災害補償でいっぱいお金もらっていいね!」と言われたことがあるからです。生まれ育った大好きな土地なのに嘘をつかなくてはいけないことが本当に悲しいです。福島は美味しいフルーツが多く自慢の県です。風評被害は完全になくなったわけではありませんが、これからもっと安全な福島を知ってもらいたいと思っています。
自分たちの手でこの地を守り抜く!
令和2年度福島県総合防災訓練
2020年11月24日、福島県内の各関係機関が緊密に連携することにより、災害時における相互の連絡協調体制の確立と防災体制の充実を図ることを目的に総合防災訓練が行われた。当日は広大な福島ロボットテストフィールドを会場として、関係機関・企業、約250名が参加し、最新の装備資器材を駆使しながら真剣な眼差しで訓練に取り組む姿が見られた。
参加機関
- 福島県
- 県内12消防本部
- 福島県警察本部(警備部機動隊、交通機動隊ほか)
- 陸上自衛隊(第44普通科連隊、第6特殊武器防護隊)
- 第2管区海上保安本部(福島海上保安部、仙台航空基地)
- 株式会社ドコモCS東北福島支店
- 株式会社テラ・ラボ
今回の取材で最初に訪れた双葉地区は、まだ多くのエリアが帰還困難区域に含まれている。津波に襲われた南相馬の海岸沿いは荒涼とした原野が広がり、福島市内でもいたるところでブルーシートに覆われた除染土の仮保管場所を目にする。一方、浪江消防署の周りでは新しい商業施設が営業を始め、道の駅もオープンした。他地域から訪れた我々の率直な印象としては、10年を経て復興の足音がようやく少しずつ聞こえてきた、というものである。「もう10年」なのか「まだ10年」なのかは人によって捉え方が異なると思うが、確実なのは今回取材させていただいた全員が「これからの10年」を力強く見据えていることだったように思う。